木枯の生まれた海にゆくまでは文字はやさしい鍵だったのに

東直子『青卵』(2001年)

近畿でも、関東でも、おととい木枯らし1号が吹いた。
木枯らしは、凩とも書いて、冬の季語。
気象庁では、10月半ばから11月末にかけて、西高東低の冬型の気圧配置になり、風速8メートル以上の北よりの風がふくと、その風を木枯らしと認定する。
平均すると、11月のはじめの立冬のころに最初の木枯らしがふくことが多い。
2月の立春、5月の立夏、8月の立秋は、どれも、暦の上では、という感じがするが、冬だけは暦どおりに来る実感がある。

つめたい木枯らしが吹くと、そのとおい向こうにつめたい海の存在を感じる。
じっさい、木枯らしはユーラシア大陸から日本海をわたってくるのだけれど、実在の日本海とはべつに、木枯らしの生まれるさみしい海がどこかにあるような気がする。
寒くてだれもこない海。そんなところに主人公はきてしまった。
主人公たちは、といったほうがいいか。
冬の海への旅、を思い浮かべてもいいが、表現の重心は心情的なところにある。

文字、というのは、言葉、と同じ意味にうけとってもよいと思う。
手紙やメールの文字、と読んでもいい。
ついこのまえまで、言葉は相手そのものだった。
たとえば、おやすみ、とか、大切に、というようなみじかい言葉にも、そのひとらしいぬくもりを感じることができた。
言葉は、おたがいをたぐりよせ、わかりあうための鍵だった。
それが、いまはおもうようにこころを伝えあうことができない。
言葉をかわすたび、はぐれてしまったふたりのこころを確認するばかりだ。

でも、まだふたりは別れたわけではない、ような気がする。
おたがいを失いはじめてから、ほんとうの恋がはじまるのだ、ともいえる。
だったのに、という柔らかな口語の結句に、さむい季節にむかう恋のせつなさがにじんでいる。

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