三井 修


わかくさの妻の日々よりもどりたる友もわたしも少女ではなく

後藤由紀恵『ねむい春』(平成25年、短歌研究社)

 「わかくさの」は「つま」(夫、妻)にかかる枕詞。柔らかい大和言葉で始まる一首である「妻の日々より」戻ったと言っているから、作者の友は離婚したのであろう。ここでいう「妻の日々」は幸福な生活というよりも、理不尽な忍従と束縛の日々というニュアンスを伴っている。友はそこから解放されて、再び自分自身の人生を歩もうとしているのだ。

 そのことを作者はやや冷めた視線で見守っているのだが、同時に作者自身のことも見詰めている。かつて友や作者が少女だった頃、未来は限りない希望に満ちていた。恋愛し結婚して家庭に入るにしろ、仕事に生きていくにしろ、或いは、それらを両立させるにしろ、彼女たちの前には努力と運次第で無限の可能性が開かれていたはずである。彼女らはそのようなバラ色の明るい未来を夢見るように楽しく語り合ったであろう。

 それから何年か経って、友は結婚して、不幸にして破婚した。人生をリセットしてやり直すにしろ、一旦は人生に挫折して、生きていくことの困難を悟ったに違いない。もはやかつての「少女」ではないのだ。そして作者自身もまた結婚するのだが、夫といえども別の人格であることを悟ったのであろう。更に、肉親や自身の病気などもあった。いわば世間の荒波にもまれるような人生を送っている。友も作者もいやというほど社会の現実を見てきたのだ。そのような時に思い出すのは、まだ何も知らなかった少女時代のことであろう。切なくて甘美だったあの時代の自分たちと、現在の自分たちの落差を思うのであろう。

 男性もそうであるが、女性の方が更に少女時代と成人後の生活や環境の変化が大きいと思う。二度と戻らない日々を恋う溜息のような結句が切ない。しかし、ここには絶望感はない。大人として生きていくことのたくましい覚悟が滲み出ている。

    ふたりいてなお募りくる淋しさに星をかぞえるふりをしており

    十代ではなきゆえ話す生活のこまかき罅のひとつふたつを

    見上げたる横顔の頬のするどさよそろそろ若さを終えねばならぬ