髪の毛をしきりにいじり空を見る 生まれたらもう傷ついていた

嵯峨直樹『神の翼』

(2008年、短歌研究社)

 

下の句のフレーズがあざやかに決まっていて、よくもあしくも、ときおり思い出す歌です。

よくもあしくも、とは全面的に肯定も否定もできないもどかしさがあるためで、作者は1971年生まれということですが、この世代特有の繊細さや気むずかしさは、他の世代には理解しにくいところがありそうです。

もちろん世代論だけで語れるものではなく個性をともなうものなのですが(それに、繊細さや気むずかしさのまったくない創作者などいませんが)、バブル崩壊後に青年期をむかえた人が抱かざるをえなかった近い過去への羨望、未来に対する絶望が、この世に生をうけたこと自体を不幸のはじまりと錯覚させてしまう。

錯覚と呼ぶのは間違っているでしょう。生きて人と交わるかぎり、たしかに、なにかの局面で傷つかずにはいられない。その叫びを上の世代は甘えと見なし、下の世代は大げさだと感じるギャップはあると思います。

といっても上・下と単純に分断できるわけではなく、私は嵯峨さんよりすこし上の世代に当たりますが、文化は地続きで共有しているので、下の句の感情のつよさに押しつけがましさを感じつつも、上の句の幼い少女のような(成人であっても)しぐさや人物像はよく想像できます。

前世紀末の漫画やアニメなどにもよく描かれた終末観、世界に幼い恋人とふたりきりのような寄る辺なさが、時代を映しています。

 

幾千の繊[ほそ]い傷あと光らせるアクリルケースに甲虫が棲む