テレビジョン消せば画面の中心に引きこまれゆく部屋が映りぬ

大辻隆弘『汀暮抄』(2012年、砂子屋書房)

 少し前のテレビは電源を切ると画面が一瞬周囲からすっと中心に向かって収斂するように消えていった。その後のテレビ画面(昔は、ブラウン管やプラズマ画面だったが、だったが、今は主として液晶画面か)の光沢のある表面に部屋の様子が映る。下句はそのことを描写しているのであろう。何でもないことを言っているのだが、なにか不思議な感覚を覚える。ある世界が終わって、全く別の世界が出現するような感覚である。昔のSF映画にあったような、世界規模の核戦争、隕石の衝突、宇宙人の襲来などによって、殆どの人類が滅亡して、ごく少数の人類が生き残った世界のような感覚と言ってもいいかも知れない。或いは、そんなSFを持ち出さなくても、大津波の襲来の後には、忽然として以前の世界とは別の世界が出現する。SFにしろ大津波にしろ、前の世界と後の世界と、どちらが真の世界でどちらが虚の世界なのだろうかと思ってしまう。さっきまでテレビを見ていてその画面の世界に浸りきっていた作者も、電源を落とした瞬間にその世界があっという間に収斂して消えてしまい、忽然と「部屋」という別の世界に投げ出されたような戸惑いを覚えたのかも知れない。

 そのこともさることながら、「テレビジョン」という言い方に注目したい。現代日本語には実に様々な略語が溢れている。情報関係だけとっても、「パーソナルコンピューター」は「パソコン」になり、「スマートフォン」は「スマホ」になる。これは文字を略するのなら「スマフォ」になりそうなものだが、何故か「スマホ」となる。このような略し方は確かに新聞の見出しなどには便利である。しかし、以前ある歌会で「ホームに人が歌を歌っている…」というような作品が出て、ある評者は「この人はなぜ駅のプラットフォームで歌を歌っているのか」という読みを出した。これなどは内容から多分「老人ホーム」だろうと推測はつくが、言葉を安易に省略すると意味が通じなかったり、誤読されたりすることがある。また、「ディの日に…」という表現に出会ったこともある。「ディサービスに行く日に…」という意味なのだが、「ディ}は「日」であるから、これでは「日の日に」になってしまう。では、短歌では略語を使ってはいけないのかと言われると、なかなかそうとも言い切れぬ側面があって難しい。特に、短歌詩型は31音という音数の制限があるので、新聞の見出しと同様に、音数が少なくなる略語は便利なことが多い。

「テレビ」は「テレビジョン」の略であるが、テレビ放送開始当時の新聞記事などではまだ「テレビ」という言い方はしていない。長くてもきちんと「テレビジョン」と表現している。それがいつの間にか「テレビ」と略されるようになった。「テレビジョン」は「テレ(遠隔の)」と「ビジョン(視覚)」の合成語であるから、「テレ」と「ビジョン」で切れるのだが、略する時はなぜか「テレビ」となる。その理由も考察してみると面白いのだが、ここでは本題ではない。いずれにせよ、「テレビ」という言葉は現代の日本ではすっかり定着してしまっていて、もはや略語という感覚はない。しかし、掲出歌の作者は「テレビ」という略語ではなく、きちんと「テレビジョン」と正確に表現した。そのことに心から拍手を送りたい気持である。

   背の裏に日がまはりきて白樫の樹が凹凸を帯びはじめたり

   コスモスの花かたはらに咲く駅に対向列車を待ちあはせたり

   山鳩が中途半端に鳴きやみてそののち深き昼は続きぬ