ハイヒールにゆく春の街身の芯を立てれば見えくるものあるやうな

古谷智子『立夏』(2012年、砂子屋書房)

  ハイヒールを履くと言う心も、我々男性には理解しがたいものがある。不安定だし、歩きにくいのではないかと余計なことを思ってしまう。しかし、女性たちは誇らしげにあの踵の高い窮屈な靴を履く。観察していると、やたらと履くわけではなく、通勤とか、デートとかの場合が多いようだ。やはり心を張り詰めなければならない場合とか、改まった外出とかの際に履くようだ。ところで、女性たちが「ヒールの靴を履く」というような言い方をするのを聞くことがある。「ヒール(heel)」は単に踵を意味する言葉だから、高くても低くても、踵のある靴は全て「ヒールの靴」だと思うが、なぜか、「ヒールの靴」というと「ハイヒールの靴」を指すようだ。

 ハイヒールは踵が高いから、履けば当然、その分身長が高くなる。どの程度かはともかくとして、見えてくるものは多少変わってくるだろうと思う。大げさに言えば、世界が変わって見えるのかも知れない。踵の低い靴を履いている時とは、自ずと見えなかったものが見えてくるだろうということは十分に理解できる。

 しかし、ここで言っていることは、単に視覚的に見えてくるものがあるということだけではなさそうだ。「身の芯を立て」るというところに、もう少し精神の在りようが込められているように思える。女性は、ハイヒールを履いた時に、物理的に視野が広がったということだけではなく、心を正すという気持ちになるのではないだろうか。心を正せば、人生に前向きになれるし、新しい思想や人生観も生まれてくるだろう。その仕掛けが、他でもないハイヒールなのではないだろうか。

      行き惑ふ水がみづを押し分けて深く動けり淵なすここは

      半年にみたびの入院三歳の指は巧みに薬液をのむ

      熟れたる実まだ熟れぬ身にうれ初めし実が皆わらふ木下に入れば