髪を耳に挟めばひそと耳の冷えふくらみながら海月の寄り来

小松久美江『草雨』

(2016年、角川文化振興財団)

 

動植物がたくさん詠みこまれた歌集ですが、どの歌も、どこか詠み手の感覚をくぐらせた痕跡をのこすようにつくられています。つまり、人の気配があります。

とくに掲出歌は、じっさいにクラゲを見ているというより、そのときクラゲが寄ってくる気がしたというほうが当たっているでしょう。毛髪が耳たぶに触れたため、その冷えが意識され、そこからクラゲのゼラチン質の身体が連想されたというように。

現代文では「髪を耳にかける」という言い方のほうが多いと思います。ここでは「挟む」という動詞を使うことにより、古風な情緒が生まれました。

「耳挟み」を辞書で引くとだいたい、それは立ち働くときのしぐさで、品のないこととされていたという説明が出てきます。平安時代の貴族の女性の話です。例文として、いわゆる「虫めづる姫君」の話のなかで、姫君が耳挟みをして毛虫を手にあそばせる場面が挙げられています。

この歌集の作者にもいくらか、虫めづる姫君のようなところがあるのかもしれません。クラゲは『古事記』にも出てくる生物であることを思うと、いっそう古い時代の自然と触れあう感覚がつよまります。

感覚は多く、オノマトペと結びつきます。

 

夜の山はめうめうと鳴るあした飛ぶ甲虫たちの生まれむとして

百草丸に脚が八本ぬがぬがと生まれてわれの前をゆくなり

 

後者は、黒い丸薬に見えていたのはクモだったというおどろきが、〈ぬがぬが〉という独特のひびきで表現されています。