見るかぎり赤信号となる道を渡りゆくなり影もたぬもの

南條暁美『往き帰る』

(2016年、ながらみ書房)

 

怪談めいた感触をおぼえたのは、結句の〈影もたぬもの〉のためです。時間帯は書かれていませんが、赤信号の色が目立つのであれば、背景は闇がふさわしく思われます。なお、この歌につづいて、月の出てくる歌が置かれています。

語り手の状況も、はっきりしません。車に乗っているのか、歩行中か。

〈見るかぎり〉とあるので直線に近い道路を車で行く途中、進行方向の辻ごとに設置された信号機が遠くまで見えていて、それらがすべて赤信号になっている光景としましょう。すこしあとにカーナビの歌もあります。

あとがきに、六十歳近くなって歌に専念するようになったとあるので、若いかたではないにせよ、歌集中にはプールで勢いよく泳ぐ歌や旅行詠も多く、活動的な生活を送られてきたようすです。しかし掲出歌と同じ連作中には

 

子を育て叔父、伯母、父を看取りきて履歴はいつも無職と書きぬ

 

という叙述もあり、“送る側”の心境が濃くただよっています。

 

五人づつ二列に座りて首吊るす何かありさうな世紀末の午後

弟の指あと残る文箱を拭くことできず十年過ぎぬ

父母が棲まなくなりて山中の家正気うしなひすさみゆきたり

 

このような、どきっとする歌がときおり出てくる歌集でした。

〈五人づつ~〉はじつは整形外科?の牽引治療の情景らしいのですが、〈首吊るす〉はどうにも不吉な表現です。夭折した弟さんの〈指あと〉は悲しくも、なまなましい。

〈影もたぬもの〉の気配をあちこちに感じます。