虚空とぞ言ふべかりけり蝙蝠の飛ばなくなりし団地の空を

花山多佳子『晴れ・風あり』

(2016年、短歌研究社)

 

第十歌集とのことで、身近な自然や家族を観察し、ディテールを無理なく描出するところはこれまでの歌集同様なのですが、本書ではなにか“穴のあいたような”とでも形容したい歌が目についた気がします。

 

こどもの頃の父の不在を思ふのみ今の不在を思はむとして

わが駅より常磐線の線路見ゆかなた不通のみちのくがあり

 

歌人の玉城徹氏が2010年夏に亡くなり、その娘としてうたっているのが1首め。2首めは翌春の東日本大震災以後の風景。背景が比較的はっきりしているとはいえ、風景はどこか遠く、手が届かないような……。

〈不在〉〈不通〉という語のせいでしょうか。

さて冒頭の歌は、これら2首より前の作かもしれず、具体的なできごとに結びつけることはできません。むかしは夕暮れになると飛んでいたコウモリをもう見ないなあ、という単純なノスタルジーを読んでもよいでしょう。

ただ、〈虚空〉はもともと仏教用語ですし、〈べかりけり〉も推測+回想をあらわす近代短歌以前の言い回しで、ここまでは、自分の感慨でありながら自分のものでない声で語るかのような調子があります。

空にあいた穴のむこうから聞こえてくるような?

“穴のあいたような”という表現が、たんなる喪失感ではない、いわば異次元への接続を意味すると考えるとき、もしや作者は以前からそういう回路をもっていたのではと感じた一首です。

 

たまたまに開いたエレベーターに乗りプラットホームからわれは消えたり