三井修


妻も子もテレビに明日の天気見る観天望気といふを知らぬか

雁部貞夫『山雨海風』(1016年、砂子屋書房)

 「観天望気」という言葉がある。天を観て気を望むとうことであろうか。要は、自然現象や生物の行動の様子などから天気の変化を予測することである。世界各地に昔から様々な観天望気があると思うが、迷信や占いとは違う。それなりに科学的根拠のあるものが多いようだ。例えば日本では昔から、「夕焼けの次の日は晴れ」とい言われるが、夕焼けが見られるのは空気中に雨や雲となる水蒸気が少ないということであろうし、「ツバメが低く飛ぶと雨」というのは、湿度が高いと虫が低く飛ぶので、それを食べるツバメも低く飛ぶから、ということのようだ。古くからの人間の経験から生まれた知識であり、特に漁師・農民・商人などには重要なものであった。 現代では気象衛星を初めとする各種の科学的観測や、スーパーコンピューターの計算による予測などが幅を利かせているが、観天望気も生きている。船舶免許の試験で「現代において天気予報が発達しているために、出航にあたり観天望気の必要はない」ことの正否を問われる問題が出されることもあるという。正解はもちろん「誤り」である。

 掲出歌の作者は、家族がテレビの天気予報に依存していることを怒っている。作者は登山家でもあるので、ヒマラヤなどへ行くと、通信が途絶えたりして、科学的な予報を得られない時があるということかも知れないが、もっと、人間性を置き去りにした現代文明そのものに怒っているように思える。怒っている相手は、もちろん「妻や子」だけではないだろう。全ての現代人に対して怒っているのだと思う。結句の「知らぬか」という強い言葉が作者の深い怒りを物語っている。

       地下駅の何処かで水の音がする酔ひてベンチに安らふときに

       山の友らと飲むは楽しと宣ひて席立たざりきみ子なき頃は

       魚の香の乏しくなりし港町犬ゐてどこ迄も吾に従きくる