尾崎左永子『椿くれなゐ』(2010年、砂子屋書房)
最新の清掃機械には実に様々なものがある。手押し式もあれば人間が乗る自走式もある。更に人間が操作しないロボット式もある。清掃の方法も、洗剤を吹き受けモップで吹き取るもの、ワックスを塗って磨くもの(ポリッシャーともいう)、等々様々である。大きな病院での清掃は外部の業者が入っていることが多いようだが、騒音対策、感染症対策など、他の事業所とはまた別の配慮が要求されるのであろう。
作者は夫の付き添いとして病院にいるようだ。重篤な容態なのであろう。付き添っている作者の絶望感は深い。病人が寝入ったような時を見計らって、そっと病室の外に出る。そして廊下を大きな機械が掃除をしながら通り過ぎていくのを何気なく眺めている。そこには病室の中とは違う不思議な時間が流れているようだ。人間の生と死のせめぎ合う病室の中、それとは無関係に無機質に、物理的に淡々と流れていく外の世界の時間、それは落差なのか、交差なのか、並行なのか…。いずれにせよ、病室の中と外との時間の流れの違いを実感する時に、人間は始めて生きることと死ぬことの意味を感じるのではないだだろうか。
音が遠ざかるという描写が何かを示唆するようである。一緒に過ごした尊い時間が遠ざかっていくことに重なってしまう。「日曜の夕ぐれ」という時間設定も深い意味を持っていると思う。一週間の終わりの時間なのだ。明日からは世間は再び活動を始める。しかし病人にはそのような再生は望めないのだ。淡々と描写されているが、その表現は周到な配慮によって構築されており、深い奥行きのある一首となった。
意識もどる時を捉えて無情にも事後処理のこといはねばならぬ
譫妄の間にいふきけば明晰に生産関数の数式のこと
ふいに君を悼む涙のつきあげて葉桜の舗道にわが立ちどまる