さくらばな陽に泡立つを目守まもりゐるこの冥き遊星に人と生れて

山中智恵子『みずかありなむ』(1968年・無名鬼)

 

日に日に北上する桜前線のさまを天気図に重ねると、日本列島を俯瞰する図がおのずから脳裏に浮かびあがる。近年の宇宙開発にともなって地球外からの送られた映像に慣れた目には、特別なことではないだろう。しかし、引用歌の、目前の景色からの発想「暗き遊星に人と生れて」は、そうした科学の力による知見とは似て非なるものである。

 

満開の桜を「泡立つ」ととらえる語感が際立っている。この一語が、桜花の様態や風情、動き、質感を見事にとらえ、作者の立つ位置や認識を読者に想像させる。下句では、想像を遥かな宇宙に跳ばし、いうなれば神の視点から人(=われ)を思い描く。冥さの中に、泡立つ桜や人を置くことで、限りない広い空間と時間を歌が内包するのである。後の歌集『玲瓏之記』では、落花を次のように歌っている。

 

しらじらと夜半に散り過ぐうたかたの桜の花は骨の音する

 

こちらは夜中の桜。「骨の音する」は、強烈なインパクトだ。覚醒しながら、しかも直観的につかみとられた言葉によって此の世の美と酷薄が提示される。