寂しさの根源として縁側の日なたに出でて正座する人

大島史洋『ふくろう』(2015年・短歌研究社)

 

斎藤茂吉に「『さびし』の伝統」というエッセイがある。いかにも茂吉らしく、各時代の用例を示し、万葉集から近代短歌までの「さびし」の変遷を追っている。かんたんに言うと、万葉時代には「肉体的・人間的」だった「さびし」だが、新古今時代には「心的・抽象的・天然的」で、近代にいたっては双方の要素が含まれているというもの。「さびし」には時代の変遷があるが、「人間本来のある切実な心の状態をあらはす」と説明される。人間存在の「寂しさ」と、言葉による変遷の「寂しさ」の両面を見ている。

 

『斎藤茂吉の百首』(大島史洋)で大島は、茂吉の【はふり投げし風呂敷包ひろひ持ちいだきてゐたりさびしくてならぬ】(『あらたま』)について、「短歌はこんななんでもない行為を表現するだけでも、それが深い寂しさに裏打ちされることによって大きな力を発揮する」と言っている。「深い寂しさに裏打ちされる」というフレーズは、大島自身の短歌観を見るようで、味わうべき評語と思う。

 

引用歌は、日の当たる縁側のようにカジュアルな場所でも姿勢を崩さない生真面目に、人間存在の寂しさを見ているが、作者は作歌しながら、茂吉のいう「さびし」の変遷をかみしめているようにもみえる。歌中の「寂しさ」は、「人間的」であると同時に「抽象的」に感じられ、具体的な「人」を歌いながら、それが作者自身の「寂しさ」のように思われる。

 

四、五冊の本を読み次ぐ日々にして読む楽しみは書くに優るも

さびしさがさびしさを消す蟬声のいつの日ならむ吾に降るとき

年老いておのれの世界にこもりつつ激しく水面を打つ尾鰭

 

読み終ったあとに、深々とした感慨が残る。