小道さへ名前をもてるこの国で昨日も今日も我は呼ばれず

小川真理子『母音梯形(トゥラペーズ)』(河出書房新社:2002年)

詞書に「デグレス通りは全長五メートル七十五センチ」


(☜4月28日(金)「人から見た自分 (15)」より続く)

 

◆ 人から見た自分 (16)

 

「雨の冠」と題された連作の流れから、フランスに滞在したときの歌と分かる。
 

「真理」といふ意味消えてゆく、横文字で氏名登録欄を埋むれば

 

アルファベットで名前を書く時に「真理子」が「Mariko」となり、名前に込められた「真理(しんり)」という意味は見えなくなる。異国の地にて自分の根拠を失ってしまったかのような不安な気持ちが伝わってくる歌だ。
 

掲出歌には「デグレス通りは全長五メートル七十五センチ」という詞書が添えられている。西洋の国々では、ほんのちょっとした道にも名前がつけられていることが多い。日本のように建物の住所を区画の目を細かくしていくことで定めるのではなく、通りを基準に定めるということなのだろう。その根拠がどのようなものにあるか分からないが、宗教や文化など、国の根幹をなす部分から徹底して異なることがつきつけられる。
 

ふと通りかかったのか、あるいはなんらかの目的の場所を探していたのか、道と呼ぶには短すぎるものにもご丁寧に「デグレス通り」と名がついている。おそらくは、パリの「デグレス通り」を指すのであろう。階段状になっており、「道」と呼べるかも疑わしい道として知られる。
 

こんな小さな道にも名前があり、多くの人に知られているのに、この国に訪れた私は誰にも知られず、誰にも名前を呼ばれることはない。周りにはたくさんの人がいる。しかし、周りにとっては私が存在しておらず、見えていないかのように思われる。ここにも不安の一端が感じられるが、同時に、これこそが外国に滞在する本質であり意味でもあろう。
 

ゆふぐれのバス停に雨宿りしてこの町に住むひとを見送る
やまざればいつそ走らう黒髪に雨の冠(いただき)きながら

 

名前からは「真理」が剥がれ、身からは名前そのものが奪われる。人から見た自分が存在していないのならば、自分が何であるからは自ら定めていくしかない。
 

黒い髪を濡らしてゆく雨を、いま冠のように思う。誰が何と言おうと、あるいは誰にも呼びとめられなくとも、私は私自身の王侯である。
 

連作はささやかながらあたたかい希望を感じさせて終わる。
 
 

(〆「人から見た自分」おわり)