身はたとへ武蔵の野べに朽つるともとゞめ置かまし日本魂やまとだましひ

吉田松陰(1938年立命館出版発行小泉苳三著『勤王詩歌評釈』より引用)

 

小泉苳三によれば「近代和歌史上この勤王志士歌集とよばれるものをあげるに、文久二年の『精神一注』一巻を嚆矢とし慶応四年から明治二年にかけてもつとも多く見うけられ以後漸次少なくなつてゆく」という。『勤王詩歌評釈』は124人の志士の歌に評釈を加えたもの。詩歌集における「日本魂」の鼓舞が、近代国家の誕生と和歌との関わりでとらえられ納得される。苳三はさらに「身分制のもとにあつては、同一身分に属する人々の思考は、つねに特定の教養によつて同等化され、身分特有の形態に於て表現せられる」と続け、勤王志士士族の思考が一元化されていると指摘している。

 

うたれたるわれをあはれと見む人は君をあがめてえびすはらへよ

親おもふ心にまさるおやごころけふの音づれ何ときくらむ

人のためうたれし人の名はながくのちの世までもかたりつがまし

 

このような松陰の歌もある。陸軍省推薦の『勤王志士詩歌評釈』は1938年に出版され、1年を経ずして30版を重ねた。1938年は徐州会戦の年である。詩歌がどのようなパラダイムにあって作歌されたか、また編集され読まれたか。それをそのように然らしめた社会的背景を考えることは重要だ。このような、ただ一つの価値観のもとに高揚感をたかめ統制をつよめてゆく表現の在り方は、はるかむかしに否定されたはずであったが、さて、現在はどうであろう。