大松 達知


いっさいが余白となりて 雪の朝なにほどもなきわたしが居たり

                                                        なみの亜子『ばんどり』(2009)

「いっさいが余白」に惹かれた。

この時期、西吉野にお住まいの作者。雪が降れば、まさに「いっさいが余白」なのだろう。

動植物の季節の営みも、人間の日々の営みも、どうしようもなくごちゃごちゃしている。ごちゃごちゃしながら、お互いがせめぎあって、場所をとりあって、時間をとりあって、生きてゆくしかないのだ。

しかし、雪というものは、そのいっさいを無言のうちに(そう、有無を言わせずに)白い被いでおおってしまう。

雪の朝、ごちゃごちゃを抱えながら存在している自分がいた。そして、小さな小さな自分という一点以外のすべては「余白」となって見えた。

(絵画の余白か、文章の余白か。余白という存在を考えるとわからなくなる。)

そのときに、ああそうだ、日常のごちゃごちゃはなんてつまらないものなんだろうか、と大笑いしたに違いない。

ふだん、自分のことをあれこれ考え、周囲のことをあれこれ思い悩んでいるけれど、雪に埋もれてしまえば、なんだ、「なにほどもなきわたし」なんだなあ、という思いを得たに違いない。

こういう、人間の小ささと自然の大きさをうまく対比して、元気をくれる歌はいい。