火鉢に火 灰皿に灰 花瓶に花 あなたはどんな手をしてるのか

中山俊一『水銀飛行』(書肆侃侃房、2016年)

 


 

『水銀飛行』でまっさきに思い浮かぶのは、たとえば、

 

農機具のレバーを握る夜の夢しょうがねえなァ田園を刈る
あゝぼくのむねにひろがるアコーディオン抱けば抱くほど風の溜息
カンバスに描かれてぼくの体重はカンバスきみが持ち帰るとき
ふたりして海に降る雨を眺めてた水溶性の傘をひらいて
いもうとが尿終えるまで金色の穂波をみてた車のなかで
魔球ぅ魔球ぅ校舎の裏で囁いて、あなたは消えてしまった魔球ぅ

 

といった歌。手慣れた感じで光度や彩度の調整された映像から、ロマンチックな情感と冷めたユーモアが同時ににじんでくる。その「調整」にはおそらく、「しょうがねえなァ」「あゝ」「魔球ぅ」といった口調や表記、「田園」「アコーディオン」「カンバス」といった語彙そのものの質感、「水溶性」と「傘」、「尿」と「金色の穂波」といった取り合わせ、等々が大きく作用しているはず。また、

 

雪泥に無数の幼児の手袋が添えられている。ひとつ拾った
電球のまだあたたかい首筋を捻る あかるい産道のなか

 

といった、異界への道がひらいてしまったような、なんだか怖いような歌も印象的だ。もちろん上の「魔球ぅ」の歌などにもちょっとした怖さはある。

 

今日の一首。まず「火鉢に火」「灰皿に灰」「花瓶に花」は、どうやって解釈すればよいのか。火鉢、灰皿、花瓶という器があって、それにふさわしいものとしての火、灰、花、ということか。その器に当然のごとく受け入れられるべきもの。あるいは、火、灰、花がそこにあってこそ、その器はそれぞれ火鉢、灰皿、花瓶として機能できるわけで、その存在の根拠となるのが火、灰、花、ということか。器のほうは実は主役ではないということ。火のため、灰のため、花のためにあるのが、火鉢、灰皿、花瓶。そのように読んでみると、「あなた」が器、それにふさわしいのがあなたの「手」、あなたという存在の根拠となるのがあなたの「手」、主役はあなたでなく「手」なのだ、といったように読みをひろげることができるかもしれない。あなたを知ろうとするならば、まずその「手」を知ればよいのだ、「手」をこそ知りたいのだ、ということか。

 

だからこの歌は、人にとっていかに「手」というものの存在が大きいかを示している、つまり最終的に「あなた」という存在がいかに大きいかを示している……というようなことは、しかし、とても言えない感じがする。なんというか、もっとデジタルというか、情が映り込んでいないというか、なんの感慨もなく「あなたはどんな手をしてるのか」と言っている感じがする。その理由はいくつか考えられると思うけれど、なかでも、上の句のその三つの対比(呼応)が、単に「文字列としての「火鉢」「灰皿」「花瓶」のなかにそれぞれ「火」「灰」「花」という文字があります」ということを指摘しているだけのように見える、というのが大きい気がしている。挙げられた対比すべてにおいて、熟語の一文字目が「に」によって指し示されている。それが三つも続く。それがあまりにもオートマチックな感じで、しかも、上でなんとか解釈を試みてはみたけれど、上の句の三つの連なりと下の句のつぶやきにはそこそこの飛躍があるから、一見するとなんの脈絡もなく「あなた」の「手」についての思いが出て来てしまったという感じもある。どうにも機械的なのだ。それらの奥のほうに見えてくる理屈だとかシステムだとか思考法だとかの類いが、整い過ぎている、というか。だから、「火鉢に火」以下、あざやかな映像を喚起しても良さそうなのに(もちろん、喚起されもしたのだが)、最終的には文字列としてのそれらのほうが目立つ。「火鉢」「火」「火鉢に火」それぞれが含んでも良さそうな情感が、対比が続くにつれて無視され、削がれていくような感じ。映像を思い浮かべて、そこに意味・意義を求めて満足、というのではどこか読みとして不十分なのではないか、もっとドライに読むべきなのではないか、と読めば読むほど不安になる。その結果、「あなたはどんな手をしてるのか」という問いを支える感情や思考がいっさい見えなくなる。なんの感情もなくそれを言っているような感じ。だから、「手」がモノとしての、ある造形物としての「手」にしか見えなくなる。じゃあこの「あなた」ってなんなのか、「あなた」がよくわからなくなる。いや、「あなた」の「手」に興味を示すこの人物そのものがわからなくなる。

 

それは音もたてずに秋のセグウェイはぼくをひとりにしないだろうか
あゝぼくはファールボールをおいかけてこんなとこまできてしまったなァ/中山俊一