睦月都/猫をわが全存在でつつみ抱くともだちになつてくれたら魚をあげる

角川短歌賞受賞後第一作「ゆふやみと強盗」『短歌』2017年12月号


 

睦月さんの歌は、2月6日と、8日の回にも取り上げたけれど、実は一番好きな歌をはずしていた。それが今日の一首。はずした理由は、昨年の1月18日1月20日の回で染野太朗さんが詳細に書かれていて、そこで指摘されているこの歌のユーモアややわらかさ、字余りや語彙がもたらす感触に敢えて書き足すこともないような気がしていたからだ。だけどやっぱり好きなので、その部分を少し書いてみようと思う。

 

猫をわが全存在でつつみ抱くともだちになつてくれたら魚をあげる

 

初句で「猫をわが」とぎゅっと猫と私をくっつけている。もうこれは、抱きながら頬ずりをしている。そして、「わが全存在で」と私が覆いかぶさる。猫よりも私の愛情のほうがはるかにまさっていて、それが字数の幅にあらわれていて、ぎゅうーっと私のほうの愛情が「猫」に押し寄せ、「ともだちになってくれたら魚をあげる」という、愛情の引換条件として「魚をあげる」という、なんという健気な思いか。だけど、今どきの猫は魚を食べるのだろうか。いや食べるとは思うけど、「さかな」っていう、言い方が、子供っぽくて、馬ににんじんとかね、猫は魚でしょ、みたいな発想。この子供っぽさがこの歌に可憐さを生んでいる。言葉の詰まった上句からふわあっと広がるような下の句へと、大島弓子の漫画じゃないけど、抱きしめている女の子のまわりに花びらが散るような華やかさがある。

 

「全存在」といえば、道浦母都子の、

 

全存在として抱かれいたるあかときのわれを天上の花と思わむ

 

という歌が思い出されるし、こちらの歌では「天上の花」というまさに華やかな言葉が遣われているけれど、「全存在として抱かれいたる」と歌い上げる大胆さは可憐さからは寧ろ遠いし、さらに自ら「天上の花」と言うときのカタルシスは高いところに飾られたシャンデリアのように散ることがない。翻って、睦月さんの歌では、華やかな語彙はひとつも使われていないのに、文体がもたらす、ぎゅっという抱きしめる気持ちが遠心的に花を発散し、「つつみ抱く」のやさしさが猫のやわらかなあたたかさを感じさせ、膨らむように字余りになる「ともだちになってくれたら」という切なさ、「魚をあげる」という子供っぽさ、「あげる」でさらに頬ずりするようなキュートさ、が次々に可憐な花を散らす。

 

こういう可憐さ、華やかさが、短歌ではめずらしいと思うのだ。
そして、読者としての私が何よりこの歌に感じているのは、ときめきだ。
「ともだちになってくれたら魚をあげる」という思いあまった字余りが、あたり一面に花を散らすのである。