大松 達知


咲く花は五分こそよけれ身のうちに残れる五分の力ににほふ

山埜井喜美枝『歩神』(1999)

 

 きちんと係り結びが使われている好例。読者は、その必然性ときっぱりとした強さを感じることができるはずだ。

 南関東では、今、梅を経て、そろそろ桃の時期か。しばらくすると、日本列島が桜にそわそわとし始める。

 「花やすらへ」と題された一連の冒頭の一首。桜の歌が続いている。この一首もやはり、ファーストチョイスとしては、「花」は「桜」と限定すべきだろう。

 それはともかく、吉田兼好のセリフを借りなくても、花の盛りばかりを善とする見方のおかしさに、みななんとなく気付いているかもしれない。

 

 五分で咲き、五分でニホフ、つまり、「美しく染まる」「美しく照り輝く」。

 これから咲こうとする命の力の美しさに打たれるのである。一花一花が、ただ安穏と順番を待っているのではない。

 気張って咲かせようとする親のような桜の樹と、必死に咲こうとする子供のような蕾。

 両者のみなぎる「力」を人間の側も全身で受け取るべきだ。この一首はそういっているのではないか。

 「花」を梅だとする解釈が許されるなら、もう少し即物的な雰囲気もある。が、「力」の意味は変わらないだろう。いや、梅の方がその「力」の入れ方は強いのかもしれない。