岩尾淳子


山あひにおりしずまれる白雲のしばしと見ればはや消えにけり

                永福門院 「風雅和歌集」1685

和歌の世界でも「雲」はよく歌に詠まれてきた。多くは月影をかくす雲であったり、雪をさそう雲、あるいは時雨をもたらす雲など。もちろん心情と対応する比喩表現にはことかかない。そう思うと、美的な観念と抱き合わせたり、心情をかさねたりするために引き合いにだされる。でもそんな重ったるい意味に塗りこめられた雲ではなくて、空に流れてゆく雲だけを眺めたい。そんなふうに雲に集中して読まれた歌はあるのだろか。

ここでは山あいに沈んで静かに動かない白雲がある。しばらくその雲の姿を眺めている、ところが何ほどもなく、とどまっているかと思っていた雲はみるみるうちに消えてしまった。
雲の動きがはやい時雨の雲だろうか。ここではそんな余分な状況の説明もない。ただ目に見えたことを時間のうつろいのままに丁寧に描写している。第四句に「しばしと見れば」とあっさりと心情を差し込んでいるが、それも深い感慨、人生の寂寥感、あるいは喪失感をかさねて読むというほどでもない。ほんとうに一瞬そう見えたというだけのこと。そして、消えてしまったものの残像がながれる。うつろう雲とながれゆく時間と。

ここでは言葉の重みが繊細な手さばきで削がれている。しかもとても自然に、まるで子どもがつぶやくようなのびやかさで。中世の歌は深い。とくに新古今の時代の歌は魅力的だ。景と心が解け合ってこのうえなく洗練されている。その象徴の美しさに嘆息してしまう。
しかし、それらの美しさを十分に知り尽くしながらこのような平明な、たくらみのない描写にたどり着いている。永福門院の歌ではもっとほかに挙げるべき秀歌がたくさんあろう。そんななかで、さらりと画帳にスケッチしておいた鉛筆画のような簡素なこの歌がしみじみとこころに残っている。