岩尾淳子


つたかづら生き生き家を巻き締めて閉ぢこめられし仏壇ひとつ

 喜夛隆子  『柿の消えた空』 角川書店 2018年

 この歌を「鱧と水仙」誌上で読んだ時から強く印象にのこった。それから、近所の空き家が蔓薔薇に屋根まで覆われてゆくのを見るたびにこの歌を思い出してしまう。圧倒的な植物の力を見せつけられて打ちのめされる。

自然の前では人間の営為なんてほんのささやかなもの。人がいなくなれば、蔦や葛の生い茂る原野にあっというまに戻ってしまう。ついさきほどまで、人の暮らしがあったことなどまるで錯覚だったかのように。

この歌をもういちど読んでみる。上句では、蔦や葛に焦点があたり、それらが圧倒的な生命力で空き家を制圧している様子が「生き生き」や「巻き締めて」などの動的な表現で力強く描写されている。そして、下句では作者の関心は「仏壇」にゆく。仏壇は外部から見えるはずはないけど、作者は心の目でそれを透視している。どの家にもひとつ仏壇がある、それはその家の死者たちの霊魂をまつる祭壇、その仏壇がいまや放棄され、家の中で朽ちるに任せられている。まるで死者が取り残されているかのように。

生い茂る植物の猛威と、取り残された家の象徴である仏壇とを対置させることで、人の存在そのものをあぶりだすように相対化させている。生者は、家郷をはなれ、家を棄てて、この地上にしばらくは生きながらえる。そしてかつては死者を祀っていた仏壇も朽ちるままに蔦や葛に飲み込まれてゆく。これが空き家の仏壇であろうと、墓であろうと変わりはしない。いつかは捨て去られ、忘れられる時の流れのなかに放置されているだけだ。

わたしたちは、だれしもどこかの場所で誕生する。そこが故郷だ。ところで故郷はあるとしても、それはこころの原郷だろうか。自分が帰ってゆける場所はとっくに失われ、何も信じず、よるべない世界をさまよいつつ不安に生きているのではなかろうか。

よりどころを失った人をあざけるように、廃屋の青葉はますます生い茂る。それは死者をも飲み込んでしまう時間のちから。

ところで、フランシス・ジャムに「古い村は」という詩がある。

すべては大きな暑さの中に眠り込んでいる…

大きな涼しさに満ちた黒い胡桃の木も…

ここにはもう誰も住んでいない…

 

この詩人は朽ちてゆく廃屋にやすらぎを見ている。なるほど心によっては、滅びとはおだやかな救済なのかもしれない。