岩尾淳子


さびしさの単位はいまもヘクタール葱あおあおと風に吹かれて

       大森静佳 『歌壇』2020年 6月号

今日から6月。大きな夏にまた近づいた。大きなものには寂しさがつきまとう。そんなことを改めて教えてくれる歌にであった。

この歌は〈さびしさの単位〉という措辞がとにかく魅力的。さびしさというと、どうしても湿りがちな情感へいくところを堰き止めて単位というクールな量感に置き換えている。理知的な発想に飛ぶところがドライで清涼感がある。しかもその単位をヘクタールとしたところに驚いてしまう。1ヘクタールは、10000㎡だから、およそ300坪。耕地面積の単位だけど、普通の畑はおよそ1アールだからその100倍。実際の耕地にするとかなり広大な農地になる。それが〈さみしさ〉の単位となると、このさみしさは尋常ではない。それはひとりの心におさまる程度のささやかな感情のひとつの相をいうのではなくて、個別性を超えた世界という無限の広野を吹き抜ける壮大な寂寥のようにも思える。

しかも念がはいっているのは、さりげなく挿しこまれた「いまも」という虚辞だ。いったい、いつを起点にして「いまも」といっているのか。これも個人史的なある時期を指すのではなくて、人の世の始源からそうなんだと言われている気がする。ここでいう〈さみしさ〉と呼ばれる寂寥感は存在そのものの根源的な寂寥感ではなかろうか。存在の無防備さというか、ひとりひとりが素裸で野に立っているような空漠感、あるいはここでないどこかに憧れてやまないロマン的な想念のようにも思われる。

だれしもが常識的に抱えこんでいる閉塞した自意識がある。この作者はそれを日常的な位相から、さらに抽象度の高いスイッチに切り替えて風通しの良い世界へと誘い出してくれる。とくに下句では言葉の起爆力によるのではなくて、どちらかというとシンプルな葱畑の景を呼び出すことでいかにも親和的でのびやかなポエジーを読者に手渡してくれる。こんなさびしさなら、いつまでもあおあおとした葱畑の風に吹かれていたい気がする。