岩尾淳子


なかなかに 鳥けだものは死なずして、餌ばみ乏しき山に 聲する

             釈迢空  「遠やまひこ」 1948年

                                                          「折口信夫全集」第21巻 中央公論社

歌集巻頭の歌である。タイトルに「凶年」とあることから、昭和9年ころ襲った飢饉による餓死の惨状が背後に読み取れる。しかし作者の関心は人にはゆかずに、鳥、けだものに向かっている。人間は食料が尽きて死んでゆくが、〈鳥けだもの〉はなかなか死なないという。餌が乏しい山から生き物たちの悲し気な声が聞こえてくる。それをこの人はどのように聞いたのであろうか。

この歌には〈鳥やけだもの〉たちが備えている、厳しい自然の中で生きてゆくしたたかな生命力への羨望に似た思いが流れている気がする。生きることを運命づけられた生命の根源にあるやむにやまれぬ欲動。抗いつつ自ら食べて生きようとすること、それが純粋であるだけ、かえって聖性をはらむのかも知れない。けだものたちの声は、大地にねざす神のように敬虔なものに聞こえたのではないだろうか。

釈迢空の〈かそけさ〉という内実には、人や動物という類の差異を無化するような、生死観があるように思う。それはある時は、悠久の時の流れを俯瞰するようなしずかな眼差しであったり、またこの歌のように対象から生々しい命の姿をつかみだすような直接性として現れたりする。

くりやべの夜ふけ
あかあか 火をつけて、
鳥を煮 魚を焼き、
ひとり 楽しき     「春のことぶれ」 1930年

この歌も、歌集の巻頭に置かれている。深い闇のなかに、あかあかと燃える炎、そして「鳥を煮 魚焼き」という力強いリフレインに、みるみる食欲が高ぶっていくような迫力がある。ここでの〈わたし〉は、食べて生きようとする原初のエネルギーそのもの。飢えて声をあげる「鳥けだもの」たちの姿となにも違いはない。
歌集をとおして読んでいると、ときおりこうした生命の濁りのような歌に出会うことになる。その内面には、おそらく自らのなかにあるはずの原初の場所への激しい憧憬が見えてくる。この方向は「闇」あるいは「永久なるもの」の領域に接続してゆく回路のように思える。それは近代が喪失したものを回復しようとする切実な願いであろうか。