なほざりに山ほととぎす鳴きすてて我しもとまる杜の下かげ

                藤原定家  「風雅和歌集」338

ほととぎすの歌で、まず口をついてでてくる古歌は「ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさあやめもしらぬ恋もするかな」(古今集)だろうか。流れるような韻律の美しさですぐに覚えてしまう。定家にもたくさんのほととぎすの歌がある。「たがためになくや五月の夕べとて山ほととぎす猶またるらむ」(新古今集)などは定家らしい流麗さに季節を思う心が品よく整っている。

ところで、掲出した歌である。風雅集を読んでいて、こつんと躓くような感じがして立ち止まった。どこかごつごつしていて、いつもの磨きがかかった流麗さが感じられない。だからこそ、読む方の気持ちにひっかかってきてしまうのか。ここで登場するほととぎすは、いかにも空々しく詠まれている。夏を呼ぶさわやかな、あるいは懐かしい鳥ではなくて、「なおざりに」、つまりそれほど気持ちも入れずにちょいと短く鳴いておしまい。鳴き声の欠片を振り捨てるように飛び去ってしまった。残された〈私〉は森の木陰にただ茫然として立ちどまっている。

この歌が定家の歌として異形に感じるのは、聞きなれない「我」が突如として現れるからだろう。この我は、どこか生々しい。たいていは、こんな我はいつもの定家ならうまく処理して景のなかに溶け込ませてしまう。しかし、ここでは鳴きすててゆくホトトギスと対照的に、置き去りにされた我がくっきりと不安をさらしている。幽玄体の代名詞のような定家卿にあって、あきれるほど実存的な〈我〉をさしだす歌があったことに驚いてしまった。

このとき、定家は何を思ったのだろう。伝統的な和歌の美を知悉し、さらにそれを更新して精緻で象徴的な美の世界を極めた定家。その歌人にして、みずから築いた人工的な美を破壊するように詠み捨てている。このホトトギスの態度とそれは照応しているように思える。ホトトギスが鳴きすてていった森には静寂が広がっている。森の暗がりでひとり定家が聞いたのは、すべてを無化する風音だったかもしれない。あるいは、言葉の届かない永遠のしじまか。