透明な魚を硝子の鉢に飼ふ少女は病める脊髄もちて

真鍋美恵子『玻璃』(引用は『現代短歌全集 第十三集』筑摩書房、1980年による)

 透明なのは魚のはずなのに、少女までもが脊髄が見えるほど透き通ってくるような一首である。魚も透明なら、鉢もガラス製だから透明で、それを眺めている少女まで、あるいは彼女の病める脊髄までもが透明に透き通って見えてくる。魚やいろいろな生き物を透き通らせた透明標本というのがあるが、それを思わせる。

あるいは同じ「透明標本」という言葉を題にした吉村昭の初期短篇を思い出す。人体の骨格標本を作るのを生業とする老いた男が、透明な骨格標本を作ることに執着してついに自分の義理の娘が亡くなったのを標本の材料に使用とする、という小説だ。これと対になる短篇として「少女架刑」という、若くして亡くなり、献体された少女の視点から、つまり死者自身のの視点から解剖されていく過程を書いた小説もある。

これらはいずれも吉村が結核の外科治療で肋骨を何本も、しかも時代のせいもあって全身麻酔ではなく部分麻酔で切り取られる胸郭形成手術を受けたことがきっかけで書かれた「骨」にまつわる初期短篇群のひとつなのだが、掲出歌の少女もまた脊椎カリエスかなにか、やはり結核に関する病いで臥せっているのだろう。結核が身近な病気だった時代を知らないからロマンティックな先入観があるのかも知れないが、透明なその病気の無聊を慰めるのが透明な魚と透明な鉢というのがとても残酷な美しさを醸し出しているようだ。