手をとめて入り日に頭を下げてゐし父よミレーの晩鐘知らず

森田アヤ子 『かたへら』現代短歌社  2020年

 

手をとめて、とあるからまだ農作業の途中だったのか。かがやく入日にむかって頭を下げている父の姿が追憶のなかから呼び出されている。それは、作者の原点の光景なのかもしれない。大地と太陽への深い感謝と、謙虚でゆるぎのない日々の労働への信頼。それは自然とともに生きることで得られるしずかな意志。つつましい生の営み。そんな父の姿をミレーの『晩鐘』に描かれた農夫の敬虔な姿とかさねあわせている。

『晩鐘』は神へのふかい感謝に満ちているが、大地に生かされている農夫の思いは同じであろう。父はミレーを知らなかったとあるが、作者はミレーを知っている。それだけ、知の領域に触れている。おそらくは厳しい農作業に追われていたであろう父の姿に、あるいは父祖たちによって引き継がれてきた労働そのものに、本質的なものを見出して自らの支柱にしてきたのではないか。

 

いづれ野に還らむ田なれ草にまじり生ひ出づる木のあれば引き抜く

 

最近は、農作業の歌に触れることが少なくなった。あったとしても美化するような俗が匂ってしまう。ところが、この森田アヤ子の農業、あるいは林業の歌はかなり違う印象があった。一見、軽妙で無心にみえる歌い口なのだが、そこにはあかるい理知と、適度な距離感が見えてくる。あまい自己満足や通俗性とは一線を画している。

ここに引いた歌にもそれは垣間見える。自然の恵みのなかでの農業というよりは、自然が大地を自然に取り返そうとする大きな力との闘いのなかで農業を営むことへの強い態度がある。その背景には長い時間をかけて獲得されてきた理念がある気がする。あるいは健康的な労働観や集団性へ信頼に基づいた精神性が生き生きとした細部や時間を発見させている。

 

畝立ての土の中より出できたり青のぼかしのおはじきひとつ
その家の並びの順に墓ならびあの世でもまたお隣となる
林となる百年杉に凭りてきく遠くみ父祖(おや)に吹きし風の音

 

一首目のおはじきにも長い歳月をかけて耕してきた土の記憶が滲んでいる。2首目のお墓、死後にもつづく村落の集団性への肯定感があかるい、三首目にも、世代を超えた歳月が流れている。人の生死をこえた歳月の大きさが歌にあふれていて心地よい。