ダンカンのように思わぬ死のもしやわれにあるやも 夜の水飲む

三井修 『海泡石』 砂子屋書房 2019年

ダンカンはマクベスに殺されたスコットランド王であり、なんの疑い持たない聖なる老王としてシェイクスピアによって描かれている。その王が一番信頼をおいていたマクベスに突如、むごたらしく暗殺されるような思わぬ死が自分にもあるやもしれぬ、という。とりこぼすことなく死は誰しもに訪れるが、ここでは不慮の死を想定している。しかもダンカンのように、とすることでそこに得体のしれぬ悪意が介在することをほのめかす。

突如おそいくる死はもちろん恐ろしいが、さらに恐怖を増殖させるのは、死を自身にもたらす世界の悪意そのものだろうか。それをどういうわけか、在る夜にふと予感し、危惧するのであろう。そういう根源的な不安につい触れてしまうことは誰しもあること。よく言われるように、生と死はくっきりと区別できるものではなくて、生のなかに死は孕まれているのであろうし、また逆に、死へむかって生はあるともいえる。生きている時間そのもののなかにいつでも死は遍在し、われわれを怯えさせ、そして根源の闇を覗きたい衝動に追い込むのだろう。

ところで、この歌を何度か読み返しているうちに、もうひとつのストーリーも露出してくる。つまり、これは死のみを恐れているのではなくて、生そのものに対しても深く慄いているのではないだろうか。ダンカンは全幅の信頼をおいていたマクベスによって暗殺される。そういう惨劇をもたらすものは死者ではなくて生者でしかありえない。死者は裏切らないが生きているものは、憎しみ、裏切り、人殺しをする。生きていることはいつも他者によって脅かされる。

それぞれの人の心のなかに、ダンカンが存在し、またマクベスが存在する。呪いの予言をする魔女たちは運命をもたらす時間そのもの。わたしたちは自身への深いおおののきを日常のなかで誤魔化しながらなんとか生きている。そしてある夜、なにか感じて立ち上がって水を飲む。こくこくと暗い音を響かせながら。