岩尾淳子


赤レンガの敷かれたる道その筋目たどれば果てのなきあみだくじ

丸山順司『短歌往来』7月号 ながらみ書房 2020年

 

赤レンガを敷いた道を歩いている。煉瓦を敷いた道だから、広い公園にあるような散策路だろうか。あるいは古い大学のキャンパスでそんな通路を見かけるような気がする。どこかしら閑静な空間を思ってしまう。煉瓦の敷かれた面は強度をたもつために、半分ずらしながら埋め込まれている。だから筋目だけたどって見ているとまるであみだくじ。この歌はただそれだけのことを詠んでいて他意がない。他意がないぶん、かるいあそび心があってそれが心地いいのかもしれない。筋目をあみだくじに見立てたところは、描写というほど固着はしていない。むしろ、その対象からふわりと想念が離れてゆくような気がする。

煉瓦の節目に着目したところや、その観察のこまやかさは一見、写実のような雰囲気を醸している。しかし想念はその現場にとどまらずに、あみだくじの果ての無さにむかってゆく。
あみだくじは、普通なにかを決着させるために使う方法。ぜったいに結果がかぶらないという終わり方がある。

しかし、この歌の煉瓦の道から浮かびあがるあみだくじには終わりがない。そう思うと、物事にはおおかた、決着などないような気がする。どんな選択をしようと、選択するという始まりはあっても、終わりはくっきりしない。いつだってわたしたちは旅人みたいに何かの途中。自分を越えた世界の時間を考えてみるなら、なおさら果てのないことばかりだ。そうだからこそ、この赤レンガの道がとても美しいものにも思えてくる。

この歌を何度も読むと、なにかに捕らわれることから自由でありたいと言う願いが流れているように思う。窮屈な自我や、息苦しい現実からしばし離れて心を鎮めていたい。少なくとも詩の世界では、明るく広がりのある時間のなかに心をあそばせていたい。
そういえば、あみだは阿弥陀のこと。サンスクリット語では無量の光を意味するらしい。現世を越えたものへのあこがれは人の心の泉かもしれない。