吉田隼人


腐れたるうをのまなこは光なし石となる日を待ちて我がゐる

中島敦「和歌でない歌」(引用は『中島敦全集』第2巻、筑摩書房、1976年による)

 死んだ魚のような眼、とは慣用表現だが、腐ってまでしまうと眼もいよいよ光を失うのであろう。眼だけが残って、腐り落ちた肉体のなかで辛うじて垂れ下がっているのかも知れない。ゾンビのようになった魚の哀れな姿が思われる。

その眼は光を失って、ちょうど石ころのようであろう。その石ころのようになってしまいたいと「我」は思う。魚の眼球と石とのイメージが重なり合って、そこに「我」の願望が向かっていく構造が独特で、一首をおもしろくしている。一首を前からすべて被せて読んでいけば魚の眼球が腐り果てて石となるのを「我」が待っているだけともとれなくはないが、そうした腐敗のイメージに心が接近している時点で「我」もまた心から少しずつ腐敗しつつあることを示しているとも言える。魚も人も、腐り果てれば土に帰って、石と変わらぬ姿となるだろう。その日をひたすらに待ち焦がれるのが「我」だとすれば、人生とはなんと虚しいものであろうか。虎ですらなく、石になってしまったとすれば──。