藤原良経 『秋篠月集』
10月に入った。昨日は仲秋の名月。秋らしいあかるい月夜だった。
引いたのは秋歌。
ふるさとは昔通った愛人の住んでいた里あたりをいうのだろうか。そんななつかしい場所も今はすっかり荒れて荻が庭に生い茂り、風だけがかよう庭となってしまった。こんな解釈をすると、単なる懐旧の歌になってしまうが、やはり荒涼とした歌の景に、そしてそれを詠ませる作者のこころの空無にどうしてもひかれてしまう。
思うに、新古今の歌人たちはどうして、あそこまで執拗に花を追い、月を偲び、雪をたたえ、恋の情緒に惑溺することができたのか。おそらく、それがすべてフイクショナルな世界だと知り尽くしていたからだろう。それは現実への反世界として成立している。崩壊してゆくしかない現実世界にうつしみを置きながら、そのこころは常に滅びを美しく、そして焦がれるように夢みるしかなかった。
幽玄の美とはいうけど、かなり歪んだ美かもしれない。ないものをあるといい、あるものを消し去ってしまう。それにしても、美とは本来、そのように逸脱したところに見る錯覚のようなものかもしれない。
崩落感というのは、秋風のように心のすきまを吹き抜けてゆく。いつかすべてが「風のすみかとなりにけり」というようなささやき。それは、あるときは怯えのように、あるときは安堵の声のようにも聞こえる。
それにしても、どんな時代も見えている風景のうらがわは「風のすみか」でしかなかったかもしれない。そんな空無に耐え、ひたすら美しい歌を詠んできた新古今の歌人たち。特に、藤原良経の歌には、滅亡をみてしまったあとの覚醒した精神を感じてしまう。言葉が澄んでいる。そして、掲出した歌のように、ながい時間をたゆたうように心が初句から下句へゆらめきながら降りてくる。現世と後世をあわいに立って風に吹かれているような孤独な魂が美しい。
手にならす夏のあふぎと思へどもただ秋風のすみかなりけり