わたしにもやさしい背中があったよね ランプのような猫の背をみる

 

大森千里 『光るグリッド』青磁社 2020年

 

猫と暮らしていると、あんまりな自由さというか、気ままさに呆れてしまう。その拘りのないふるまいは見ている方の気持ちを不思議になぐさめてくれる。どうしてかな。猫の住んでいる世界はそれほど広くはないけど、猫はその空間とひとつになっている気がする。そんな調和した世界に達してみたい。こんなことを思うのは人間の勝手かも知れないけど。

 

ここでは、猫の背中を〈ランプのような〉と喩えている。夜だろうか、しずかな猫の後ろ姿にほんのりとした優しさが滲んでいる。たしかに猫がいるだけで、部屋に小さなあかりが灯ったみたいに温かい。この歌ではそんな「やさしさ」が自分にもあったはずとだと、まるで遠いところに忘れてきた大切なものを思い起こすように自身に語り掛けているところが切ない。それが背中であることに気持ちが引かれる。背中は自分では見えないし、特に意識しない部分。だけど、その背中にかつて凭れていたものたちがいたとしたら、と思うと一首のなかに薄明かりのような歳月が流れはじめる。

 

やじろべえゆらゆら揺らす指先もこの指止まれもお母さんゆび

 

母であることを自身の支柱のように感じていられる時期というのはあるのだろうか。あったとしてもそれは錯覚みたいなもの。若い母であったことが傷跡のように寂しさを呼び覚ますことのほうが本当らしい気もする。この歌ではお母さん指に「やじろべえ」が揺れている。それは「お母さん」が背負ってきた不安そのものであるようにゆらゆら揺れ続けている。あるいは家族の中心にあることへのふっとよぎる懐疑、または葛藤。

 

わたしたちは男女にかかわらず、何者かでありたいと思いつつ、何者かでしかないことには耐えられない。それは深く問いかけをする自立した精神ほど痛切な課題だろう。どうしたら自由であることができるのか。それはさみしさと背中合わせなんだけど。

そういえば猫の背中って、ときにすごく孤独にみえてしまうことがあるけど、どうだろうか。

 

ときに猫、何度呼んだらふり向くのキンノエノコロ探しに行くよ