いのちひとつただありがたく保たむにその他無用といふにもあらず

竹山広『眠つてよいか』(2008年)

 

脳に出血があって、行動の自由を奪われたと「あとがき」にある。
そういう時期、命がある、そのことだけをありがたく思って生きてゆこうと思う。思うのだが、しかしよく自分の心をのぞき込んでみると、どうもそれだけで他は何もいらないというのでもない。
「といふにもあらず」という表現に、余裕があり、ヤレヤレ仕方のないことだ、というような一種のトボケた味が混じる。人間の欲には限りがない、と真正面からいうと悲壮になってしまうところを、こういうもの言いで、自身半ばあきれつつも、しかしいわば大きいところで肯定している。

 

竹山の目は、他者にも自分にも、見逃すものなく鋭く注がれる。だが、それは冷たい批判にとどまることはない。人間を底深くから見る眼力が一回り大きく、それが包容力を感じさせる。

竹山の歌業の中心には、長崎の被爆体験があるが、わたしはこの人の歌を読むと、人間というのは仕様のないものだが、しかしそう悪いものでもないかもしれないという気持ちになる。

 

生前最後となったこの歌集にも豊かで、深い味わいの歌が並ぶ。

・わが庭のすでに暗きに鳴く蟬のいそしみてよき声に鳴くかも
・食べごろとおもふ隣りの吊し柿減りはじめたることに安堵す
・ときながく咲くシクラメン七、八日退(の)いてくだされ白ばらがきた
・けさふたつ咲きたる芙蓉明日四つ咲くとふ芙蓉明日起きて見む

竹山広は、先月30日亡くなった。90歳。
あとには、たっぷりと彼の歌がのこされた。

・まなこ閉ぢをればよく見ゆ人ほろび去りし地上に来ん朝と夜

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