青き田に降りゐる雨の色見えず見えざることにやすらぎてをり

                水沢遙子 『光の莢』不識書院 2018年

 

ここ数日すばらしい秋晴れがつづき、いちめん金色に実った稲田がまぶしいくらい。夏から秋へと移り変わる色。色はさまざまな想念を呼びおこすけど、ない色を想うこともまた深い。

この歌では、まだ稲の葉があおあおと伸びている初夏の水田だろうか。そこに雨が降り注いでいる。葉を打つ音は聞こえるが、宙を滑り落ちてくる雨そのものは見えない。作者の視線は水田の上にひろがる白っぽい空間にある。そして雨の色が見えないことに心はふかく安らいでいるという。雨は水であるから本来透明なのに、さまざまな色にたとえられて表現されることがある。しかし、ここではそうした虚飾はいっさい退けられて、雨そのものの本質のすがたを見つめている。

見えるものは騒がしいノイズに包まれている。それに対して見えないものは、時間をこえた精神そのもののようにしんとそこにある。このようにこの作者の思考はつねに現実の表層から離れて、その向こうにある世界を探ろうとする。それは煩雑な具体より、より整理された抽象へと飛翔していく。そこから編み出される言葉は、静謐なひかりに包まれ、ふかく安らいでいるように見える。そして常に凛として時間の相のなかに立っている。

 

〈時間〉といふ大鎌にかられぬものはなしこの世にてわが合ひえしひとも

 

時間の神であるクロノスの持ち物は大鎌だ。すべてこの世にあるものは、容赦なく時間によって死をあたえられ、消え去ってゆく。

 

車窓より大阪平野を俯瞰すれば浮かびさうで消えてしまふ記憶よ

道も木も見下ろせば他界鳥かげのふいに消え失する空間ありて

 

現世に見えるものはすべて消え失せてゆく、かすかに残された記憶でさえも。だからこそ、言葉でそれは刻印されねばならないし、静かなやすらぎが与えられねばならない。この歌集の中ではさまざまな死者が鎮魂されている。

 

光の莢のうちにいつしかはしづまらむ現の外へ去りにしものを

 

その死者たちもいつかは光の莢に鎮まるべきものであり、いいかえればそれは記憶として受け継がれてゆくことで救われるのだろう。こうして思いをやることで、時間という大鎌に刈られても、なんどでも命はよみがえることができる。それは見えない姿としていつもある。そして過ぎてゆくことは、次に来るものにも通っている。過去はそのまま、未来でもある。そんなはるかな祈りがこの歌集には流れているように思われる。

 

約束を果たすを待たれゐることを明りのやうに思ふことあり