そのままのきみを愛するなんてのは品のないこと 秋 大正区

         染野太朗 『うた新聞』2020年10月号 いりの舎

 

一読して通り過ぎることができないフレーズ。人を愛する愛し方は人それぞれだけど、ここでは愛し方に「品がない」という解釈がされていることに軽い驚きを感じた。愛し方に品があるとかないとかいう意味付けをするところが、そもそも読む方の常識の虚をついているようで挑発的でもあり、ユーモラス。しかも、結句に「秋 大正区」と、大阪でもとりわけ濃い地名を添えて、異質性を際立たせているところが心憎い。

 

自分がかってに描いた人物像を愛することは自分を愛するようなものだから、それは「否」とされて当然。とすると、「そのままのきみを愛する」というのは、愛される方からも望ましいはずのことではなかったかな。でもこの歌では、そういった通念に揺さぶりをかけている。

考えてみれば、「そのままのきみ」とか「ありのままのわたし」とか、言うとき、どういう全体をさしてそう言えるのか、見当もつかない。もともとありもしない虚像をイデアのように追い求めているだけなのかもしれない。終わりのない自分探しみたいに。

あるいは、恋愛の対象となるときには、相手が女性であれば、前提として「女性としての」、という留保が付いたうえでの「そのままのきみ」ということになることを、二重に疑っているのかもしれない。

昨今は男女というジェンダー意識が高まって、恋愛そのものがいくえもの意識にからまれて困難なように思える。そんななかで、やはりひとりの人を愛したい。愛する人を大切に思い、その人のすべてをそのまま受け入れて何ひとつ壊したくない、という切ないほどの恋慕が、抑制された文体にかえって深く刻印されている。

 

この歌を読んでリルケを想った。リルケは非所有の愛ということを苦しみながら模索した詩人。この詩人のとびぬけて繊細な神経はやはり恋愛の「品」ということを強く意識していたのかもしれない。愛されるよりも愛する人であれと。まるで夢をおいかけるように。

 

どのやうにおもひかへせどきらめいて琵琶湖はだれの夢であらうか