魚村 晋太郎


そらいろの小花にとりかこまれながら電信柱けふも芽ぶかず

花山多佳子『木香薔薇』(2006年)

たまたま読んだ文章に「近頃は、道草を食べる、と言う人がいる」と書いてあった。道草は、食う、というべきで、何もかも丁寧に言えばいいというものではない、という趣旨だが、すこし前に書かれた文章なのだろう。
通り魔事件などを警戒して、最近は、子供たちが保護者の監視下に集団で登下校する姿が見られたりする。子供たちにしても、学校が終わったら早く家に帰ってゲームで遊びたいような子が多そうだ。道草、という言葉自体、なかば死後になりつつある。

そらいろの小花、というのはたぶん大犬の陰嚢(おおいぬのふぐり)だ。日本全土の道端、街なかでは電信柱や街路樹の根元のそこだけ地面が露出している場所などにもよく見られる。
子供の頃、道草をしてよく見かけたはずなのに、そのころはあまり目にとめず、花の名前も気にならなかった。名前は果実のかたちに由来するということで、一度見てみようと思うのだが、果実のできる時期には毎年忘れてしまう。

舗道の傍らの小さな地面にも今日は、春の訪れをいち早く感じた愛らしい空色の小花がいっぱい咲いている。その小さな花にかこまれた電信柱は、とりのこされたように昨日と同じ姿で立っている。
とりたてて寓意を読み取る必要はない。足下の小さな景色のなかに春の訪れをよろこぶ、作者のやさしいまなざしがそこにある。

作者は木製の電信柱に親しんだ世代だ。都市部ではもう殆ど見られなくなったが、コールタールのしみこんだ木の電柱は昭和の原風景の一部であった。宮沢賢治の「月夜のでんしんばしら」なども、木の電信柱がいかにも相応うのである。
コンクリート製の電柱しかしらない世代には、一首は少少奇を衒った歌とうつるだろうか。そう思うとすこしさびしい、が、時間がたつとだんだんわからなくなる、そんな風景を残しておくのもきっと、短歌の愉しみのひとつなのだ。