入日さすあかり障子しやうじ薔薇色ばらいろにうすらにほひて蠅一つ飛ぶ

斎藤茂吉『赤光』

 

この歌は明治四十年作で、歌集『赤光』に入っている歌です。
以前からなんとなく好きな歌なのですが、この歌の入っている「留守居」というのが八首の小連作で、これもちょっといい感じです。
「留守居」は『赤光』の連作の中だとだいぶ目立たないほうだと思います。
「死にたまふ母」のように大きな出来事が起こるわけではなく、その名のとおり家の「留守番」がテーマです。
というより、留守番をしていてひまだったから、そこにいた蠅を見ながら八首作ってみたという感じのものです。

 

留守居して一人し居れば青光あをひかる蠅のあゆみをおもひに見し

 

秋の日の畳の上に飛びあよむ蠅の行ひ見つつ留守すも

 

だいぶひまそうですよね。そして「留守居」「留守すも」としきりに言っている。
一人で留守番をしていて、西日がさしている。蠅が一匹いて、なんとなくそれをじっくり見てみている。
このへんのシチュエーションに、僕もなにかぐっとくるものがある。
「留守番」というのが少しだけイレギュラーな事態で、その中にいることで、いつもより蠅をよく見てみたりする。やがて夕陽が畳の部屋にさしてくる。むずむずと歌ができそうになってくる感じがわかる気がします。
でもこの二首くらいだと、さほど出来はよくないのかと。

この後に今日の歌がきますが、この「障子」の歌が一番いいように思います。
「あかり障子」とは、今でいう紙を貼った障子のこと。そこに夕陽があたっていて、「薔薇色」というちょっと毛色の変わった語彙がでてくる。そして「うすら匂ひて」、障子の紙の匂いと「薔薇」の語からの連想も重なってくるのかもしれません。蠅はその中をシルエットになって「一つ」飛んでいる。
印象が鮮明に浮かぶ歌だと思います。
不思議な気がするのが、連作で読むとこの歌が出来てくる背景には「留守居」というシチュエーションがかかせないはずなのですが、一番出来のいいこの歌ではむしろその言葉が消えていること。そしてひまだから蠅をじっくりながめてしまう、というのがもともとだったところ、この歌になるとあかり障子の薔薇色に飛ぶ黒点のようになっていて、蠅をくわしくながめるニュアンスも薄れていること。
しかし、無駄なところだから捨ててよかったという話ではなく、それらのことはこの印象的な一首の中にとけていて、見えないところで生きているような気がします。そのへんがこの小連作の好きなところです。

 

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