谷岡 亜紀 『ひどいどしゃぶり』 ながらみ書房 2020年
催眠術にでもかかったような時間が流れる。
高度三万フィートを飛ぶジャンボ機。その中に人々は眠ったまま運ばれてゆく。そんな春のたそがれである。
「千人」「三万フィート」と出てくる数詞が、ここではまるで現実感がない。夢の中のことのようにぼやけている。でも、たくさんの人を乗せたジャンボジェット機が三万フィートを飛んでいるのは現実だった。
何処へ向かって飛んでいるのか。午の睡りを貪っているうちに人々は何処へ運ばれてゆくのか。考えることをやめて、時代とともに流されてゆく現代人の姿そのものがそこにあるようだ。「千人」とか「三万フィート」とかいう数詞も、むやみに肥大化した空虚を思わせる。危うい現実。
そして、「千人の」から始まり、「春のたそがれ」で終わる一首の緩やかな調べ。言葉ひとつひとつは現代であっても、古典の「春のたそがれ」の名歌のようである。このテンポでは、催眠術にかかってもおかしくはない。このテンポがまた、現代に対する批評に繋がっている。いいのか、そんなに暢気にしていて、何処へ向かっているのか知れたものではないぞ、というような。
だが、今、コロナ禍のなかでこの歌を読むと、この歌の現代への批評性も〈過去〉になってしまったようで、ちょっとショックである。
午の睡りを貪っているうちに運ばれた先が、〈今〉であったということか。
心さえ無ければなべて楽しきと鳩散る空の秋の黄昏
こちらは、「秋の黄昏」の歌。西行の「心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮」のパロディだ。
心を無くし、楽しんでいるうちに、世界では何が起こっていたか。楽しければいいじゃないかと、敢えて見ようとしなかったつけは必ず来るだろう。「鳩散る空」が見せていたものは何であったか、あらためて考えなければならない時が来る。
「今日われは霞を食う人、夕光の中の遊びのごときわが歌」と自らを詠いもしている作者。だが、その歌は、古典を本歌とするときでさえ、現代に、現代の危うさに、食らいついている。