久我 田鶴子


脚が脚が、とひとの呻きに始まれるこの家の朝(朝死ねと思う)

なみの亜子 『そこらじゅう空』 砂子屋書房 2021年

 

人のうめき声で始まる朝なんて、誰も望みはしないだろう。それも、毎日、毎日、目が覚めれば、ひとの呻き。そこから始まる一日、一日。

朝なんか来るな、朝なんか死ね、と思うのも無理はない。

 

この世にもう心のはずむことのなしくるくるしいと鳩の遠鳴く

うたのこと父母のこときみのことほんま言うたらもうめんどくさい

 

遠くで鳴いている鳩さえ、「くるくるしい」と鳴く。「この世にもう心はずむことのなし」の言い切りの強さは、作者の悲鳴だ。作者を苦しめているのは、脚が脚がと呻くひとだけではなく、歌も父母もで、何重にも苦しみにのしかかられている。「ほんま言うたらもうめんどくさい」は、思わず関西弁で出た本音なのだろう。

けれども、どれも簡単には投げ出せないものだから、苦しみを抱えたまま、今度は作者自身の呻きが洩れる。(朝死ねと思う)である。括弧で括られているのは、声になる以前だから。まだ「朝死ね」と声にして発してはいない。むしろ、声にして発してしまえれば、いくらか苦しみを発散できるのかもしれない。だが、抱え込んだままでは心身ともに疲れ切ってしまう。

 

朝がきて目覚めることの絶望にはじまるひと日ようやく冬日

次第に家人に居られるだけで体調の狂うわが身にわが身のうめく

うめき声にはじまる朝をいったんは発つのだ犬とボールと

傷み老い わたしのまわりの誰彼のかぶせてながきこの世の蓋よ

 

飼い犬との時間だけが救いのようであった日々にも時は流れ、母が逝き、介護度を上げた父は独居に。そして作者は、ついに呻きの家から出ることになった。周りの人たちから被せられてきた蓋をついに外すことにした。

人間の我慢にも限界がある。なにもかもを一人で背負い込むことはできないし、疲れ切ってしまっては考えることさえできない。そう分かっていても、自分さえ我慢すればと頑張りすぎてしまうのも人間なのである。

 

ながくながく頑張りすぎた私につくつく法師なつかしく鳴く

 

ようやく普通に聞こえてきたつくつく法師の声だったにちがいない。「なつかしく鳴く」と聞こえるまでに、鳴いていても耳にさえ入らなかった長い時間があった……。そのことを思うと胸が痛くなる。