坂をくだれば腿の高さの突き当たりにガードレールが見えている坂

斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』

 

けっこうややこしい歌。そして意識的にそうなっているというか、視点の位置や語順による短歌のリアリズムのあり方自体が主題になっている、みたいな感じがします。

よく見ていると、これは、「腿の高さの」と「突き当たりに」を入れ替えてみるとかんたんになるのかな。
坂をくだって突き当たりに腿の高さのガードレールが見える。
これだとだいぶわかりやすい。
しかし、「腿の高さ」は坂を下っていなくて上から見ているのになぜわかるのか。
ガードレールの高さは予想がつくからなのか。
「腿の高さ」が不思議で、こう言うからには何か平行の視線で見ているような気がしてくる。
でも「坂をくだれば」で仮定の形になっているから、上からの視線を想定してしまう。
そして「腿の高さの突き当たり」という言い方の不思議。入れ替えた方がわかりよくなると思うんですけど、こう言えないこともないような気もする。
さらに最後の「見えている坂」。
「見えている」はきっと連体形で、だから全体が最後の「坂」にかかる長い連体修飾語になる。ものの本によると、日本語は連体修飾語構造が大好きだそうです。短歌でも和歌でも多い。。
この歌では連体修飾語がマックスに長く、さらに「坂をくだれば~見えている坂」という変な形になっている。
最後の「見えている」になると、どっから「見えている」のかよくわからない。いちおう語法的には坂をくだる前の上からに思えるけど、仮定上のくだった後の視点からな気もしてくる。

 

さて、すっきりした解はとても出せませんが、わたしは明日も仕事なのでまとめなければなりません。
難解とも言えるかと思いますが、その難解さの方向性ぐらいは見える気がします。
とてもおかしな構造をもっているこの歌は、日本語と短歌の語法に対して意識的で、その奇妙さみたいなものをエクストリームな形で提示することで、ぐにゃぐにゃにしている。
変なんだけど、ストレートに語法を壊すといったことと方向が違う気がします。

短歌だと特に、読むときに「腿の高さの」とか「見えている」のような言葉から主体の視線を追跡して位置を把握したり、語順によって意識の流れを追体験したりというようなことがけっこう特徴的に、ときに無意識に行われている。

そのへんの構造、ひいては日本語の構造の深部のようなところに手を入れてさぐろうとしている。

わたしは何かそんな歌に見えます。

 

 

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