川魚のむねをひらいてゐるときに夕虹あがる夕虹のうた

前川佐美雄『白鳳』

 

 

これも夏っぽい、シンプルなかたちの歌だと思います。

魚は「川魚」。細くて長い体。お腹の色彩と光り方。
あれは虹っぽい。「ニジマス」とか考えてしまいすが。
「川魚」というと、山のイメージがついてくる気がします。山のほうにかかる虹。

検索したかぎりですが、魚をさばくときに「むねをひらく」という表現はあまり出てこないみたいです。「腹をひらく」とか「背からさく」とかが多い。
ここで「むねをひらく」としているのは、みずからの胸をひらくような感じがあるのかと思う。

一番惹かれるのは下句の繰り返し。「夕虹あがる夕虹のうた」。
虹があがって(あらわれるということだと思いますが)、それが虹のうたになる。
特にこの結句は、勢いみたいなものでそのまま「夕虹のうた」と口をついて出てきたような雰囲気があって、それも含めて決まっている気がします。
前川佐美雄、ところどころ直感的に作っている感じが作品を重ねてもずっと残っていて、そこが魅力に思えます。

この歌はそれでなんとなく自閉的というか、ひとりあそびみたいな世界で、それが美しい。
と思うと、続く歌はこんなだった。

 

木に登り野ずゑの虹を見てあれば花嫁の列の来るけはひなり

 

夕虹のあがりゐるときぞ山寺はもはや賑はしきうたげのさかり

 

「花嫁の行列」は気配で、山寺の宴も幻っぽい気がします。そう考えると「夕虹」も幻で、山の中の空間にはなやかな幻があらわれ、自分は参加せずに木に登って見たり、「うた」を聞いたりしている。サイケデリックかつ孤独な世界という印象です。「虹」という短い連作。

 

飯を食む白いうつはにかかれある生きものの目をまた愛しだす

 

ほかからもう一首。これも好きでした。
お茶碗に描いてある図柄、あれを「生きもの」とみるのが面白い。
デフォルメされた動物とか魚とかなのかな。たぶんシンプルに描かれた「生きものの目」に愛着する。これもちょっと精神的に発達がとまっている部分、みたいなところがある。「また」だから、ときどきこれが来るなあっていう感じなのかもしれない。

 

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