工藤 玲音 『水中で口笛』 左右社 2021年
「水中では懺悔も口笛もあぶく」とは、よく言ったものだ。
確かに、水中では、懺悔をしようとしても、口笛を吹こうとしても、「あぶく」になってしまうだろう。
「水中では」と字余りで始まった歌は、「懺悔も口笛もあぶく」と2句目、3句目はひと続きに12音。
一字空けた後の下の句は、平仮名ばかりの「やまめのようにきみはふりむく」。いや、平仮名は「あぶく」から既に始まっており、一字空けによる場面転換も鮮やかに、清流の中に「きみ」の動きを描き出す。
漢字の多い上の句に対して、下の句のひらがな表記。思考と、そこから広がった生き生きとしたイメージとがうまいバランスで表現されている。
そして、「わたし」から「きみ」へという思いのベクトル。
「あぶく」は、懺悔だったのか、口笛だったのか、いずれにせよ「きみ」に向けられたものであったはずだ。「きみはふりむく」は、それに対する反応。言葉や音の響きであれば、そこにあったはずの意味が、「あぶく」となっては消されている。それでも気づいて、「きみ」は振り向くのだった。
水の中という設定から生まれた瑞々しい青春歌。「わたし」と「きみ」の、思いの作用・反作用が、最もシンプルな形で詠われている。
すずらんのふるえるように拒否をしてあなたの纏う沈黙を見た
とっておきの夏がわたしを通過する鎖骨にすこしだけ溜めておく
これらの歌も、漢字とひらがなのバランスが美しい。
対象は、「きみ」から「あなた」へと変化している。相手をどう呼ぶかによっても、印象はだいぶ変わってくる。それはまた、作者の中の変化でもあったのだろう。
作者は、1994年生まれ。岩手県盛岡市渋民の出身。
渋民と言えば、石川啄木。今までずいぶんと啄木に喩えられたり、比べられたりしてきたという。そのことにうんざりさせられた時期もあったようだが、この歌集は啄木の没年(26歳)までに出したいという思いで纏められた。そして、あとがきの最後には次のように記している。
おわりに、石川一さんへこの歌集を捧げます。
どうだ。わたしはいま、ここにいます。
実に頼もしい。
これから作者は、啄木の生き得なかった年齢を生きていこうとしている。