永井 祐


小せぇお~いお茶飲みやがって 小さいお~いお茶を飲むな

伊舎堂仁「ザーッて」

 

心にとまった歌でした。
言われてる気がしたから。
わたしはよく大きい伊右衛門を買います。しかし休みの日や出先などでときどき、小さいボトルのお茶を買うこともある。
その小さいボトルのお茶に対する、微妙な違和感みたいなものが自分にもちょっとあって、そこを突かれた感じになりました。
ちっちゃいお茶飲んでると矮小な人間かというと、もちろん別にそんなことはない。
大きい伊右衛門を飲んでると小さいお~いお茶をばかにできるかというと、特にそんなこともない。
けれど、小っちぇえなって言ってくるポイントとして、お茶のミニボトルは何かいいとこ突いてる気がして、それで心に残ったのでした。

たとえばコーヒーとかだと成り立たないのかもしれない。苦くてカフェインが入っている。
あるいは甘味のある飲料だと、小さいのにも納得がいく。
お茶は健康にも何の問題もなく、味も薄くて疲れない。
お茶を選ぶ時点でそもそも守りに入ってしまっている。
でもまっさらな水ほどの潔さはない。小さい南アルプス天然水などを飲んでいれば、そういう人だなと思われて、こんなことは言われなかったのかもしれない。
小っちゃいお茶の、何か半端さと安易さがよくなかった。
以上はわたしの雑な生活感覚と偏見から導かれるようなロジックなのですが、一瞬一理ある気がしてしまった歌でした。一理無いんですけどね。一理無いことを言ってくるのが面白いところでもあって。

「お~いお茶」というセレクトは、歌をわかりやすくしているような気がします。
「お~い」がむかつく、とかはわかりやすい。この名前を繰り返すだけで歌の異物感が増幅する。
ほぼ同じ内容が二度繰り替えされますが、ミニマムな変化がついている。
「小せぇ」→「小さい」、「飲みやがって」→「を飲むな」
ここはブーメランというか、小っちゃく言い方変えてんじゃねえよと言い返せる気がしますが、それも面白いのかな。

変化はするものの、「飲みやがって」から「飲むな」はむしろ表現的に貧しくなっていて、それも印象的でした。

ただ「飲むな」まで来てしまうと、けっこうやばい。