黒木三千代『貴妃の脂』(1989年)
水の辺に立って、鯉を見ている。
鯉が上下になってすれ違う時、ふっとある感覚が兆す。
もしかしたら危ういものではないのか。それは鯉自身の感じ方とも、また鯉のもつ何らかの感覚そのものが危ういともとれる。
ともかく、その危うさは文体によって大きく補強される。
唐突に「或いは」と始まる文体は、初句が七音で、句切れを含み、また二句へ句またがりになる不安定さだ。それを「或いは」「危ふからずや」のそれぞれ初めのア音で統率、そして二句目もまた句切れを含む。それらを四句の一音の字余りがやわらかく受け止めるが、結句は言いさしの形に置かれる。
こうしたうたい方によって揺らされる読む者の気持ちは、水中にすれ違う鯉の像を思い浮かべる時に、いっそう、存在するものが行き交う(しかも触れんばかりに近く)時の予測のつかない感じ、あるいは不可思議さを受け取るだろう。
しかしそれも、最後の「なども」によって又あいまいにされる。焦点を結ぼうとした感じ方は、この水の中に溶かし込まれてしまうようである。そのことが、なにやら落ち着かないような、だがその方が自然であるような感じを残す。
ここで登場するのは、鯉でなければならないのだろう。あの容姿、独特の存在感が、歌人の感覚を刺激するに違いない。
・影のごとま鯉集まり紛れざる緋鯉一尾は恥のごとしも