しずまらぬ死者ら泳ぎてくるゆえに月光(つきかげ)白しわがまなかいに

玉井清弘『清漣』(1998)

 

 「死者」「月光」という大きな言葉があると、短歌らしくなりそうだが、だからこそ秀歌に仕立てるのはむずかしい。

 ここでは、「泳ぐ」「まなかい(眼間・目交)」という現実的な言葉の援軍を得て、シュールでありながら説得力のある歌になっている。

 一番下からさかのぼって解釈すれば、自分の目と目の間に、白く月光が差してくる、それは鎮魂なされていない死者たちが泳いでくるからだ。

 ということになろう。

 

 言葉も風景も月と作者の間に張られた一本の道の上に乗っている。

 アニメーションにするにもふさわしい光景だ。

 成仏していない死者たちは、この世への未練を残しているという。そういう死者は、イメージとして、ほわほわと地上3メートル辺りを漂っているように思ってきた。

 ところが、この歌では、どこかの地点で月からの光に乗り、死者自体が光となってやってくるという。それも、泳いで。とてもよくわかる、静謐で恐ろしいシーンである。

 やはり、「泳いで」がいいのだろう。ただ「来る」というよりも一歩深く、一歩具体的に突きつめたとことが巧みであるのだ。

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