街なかにあふれてゐたり花の名を知りたるゆゑにその花さはに

栗原寛『Terrarium』(短歌研究社、2018年)

 

深くうなずく一首。街なかにある、もののほうは変わっていないのに、わたしの認識が変わったことで、見える部分、そこにあるものがおのずと変わって映る。

 

アガパンサスの花を知ったころ。やまぼうしを、百日紅を、椿と山茶花のちがいを、ツツジとサツキのちがいを、辛夷と白木蓮のちがいを知ったころ。マロニエを、栃の木を知ったころ。まちにその花がいかにも「あふれて」咲いていた。でもそれは、知るまえからずっとそうだったのだ。

 

たとえばエルグランド(車)を買おうとしたら街にエルグランドがあふれて見える、というのも同じことだろう。何かを「見る」ということの裏には必ず「見ない」ということがあるのだし、「見ない」こと抜きに「見る」ことは成り立たない。あるいは自分の感情についても、それに名前がついたり、形を与えられたりすると、自らのうちがわにずっとあったのだと、つぎつぎに思い返されることがある。一首という形を得ることもまた、といったらいいすぎになるだろうか。

 

「さは」は多、たくさんのこと。景色が一変した、ということは、わたしが変わってしまったということでもある。そのことをまず端的に、二句切れで述べて余韻深い。なお歌集タイトルは、ただしくは『Terrarium テラリウム〜僕たちは半永久のかなしさとなる〜』と副題がつく。

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