野の上の風に吹かるる青菜あり青菜は常にあたらしく見ゆ

土屋文明『青南集』(1967)

 

 何か言いたいことがあって発信する。

 それはひとつの真っ当な姿である。

 しかし、何か発信すべき枠組みがあることによって、言いたいことが見つかる、ということもある。

 詩歌の場合、そういう側面も大きい。

 定型の言葉というスコップを手に持たされて、何を掘ろうかなあと辺りを見回していると、思わぬおもしろい物事を掘り起こすことができる。

 長年、歌を作り続けてゆくおもしろさである。

 

 この文明の歌も、そういうところから生まれたものかもしれない。

 どうでもいい野の風と、どうでもいい青菜しか登場しない。しかし、そこに「常にあたらしく見ゆ」という句を掘り起こすだけで、こんな魅力的な歌になる。

 (石巻などへの旅行詠だが、青菜の具体名は不明。)

 

 本来、新しいからこそ青菜なのであって、時間が経ってしまったら青菜ではなくなるはず。

 そこをひっくり返して、いかにも自分が発見したような調子で、「青菜は常にあたらしく見ゆ」と言ってのけたところにコロンブスの卵的なおもしろさがあるのだろう。

 個人的には、こういう何でもない歌に、歌本来の良さが宿っていると思う。

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