鈴木一念「六月作」『アララギ』,1931年6月号
「少し愚なる小僧」。ちょっと抜けている小僧、くらいのニュアンスでしょうか。
「まぐろ」と繰り返し寝言を言う「小僧」をうたう語り手の表情は見えませんが、でもなぜか「少し」に意地を感じる。
それは、「すこしおろかなる/こぞうはこよいも/ねごとをいう」…八・八・六と、上の句の韻律が破綻してしまっていることに起因するのでしょう、
「少し」を取ってしまって、「おろかなる/こぞうはこよいも/ねごとをいう」とすると、初句七音よりかはすわりが良いし、「少し」があろうがなかろうが、下の句の「まぐろ」四連発が崩れることはありません。
けれども、語り手は「少し」と言いたい。この奇妙な破調が、下の句の「まぐろ」の群れをより不可思議な存在に仕立て上げているようです。
作者である鈴木一念は、知る人ぞ知るアララギの歌人。年譜を簡単にまとめると、
1901年1月、東京府生まれ。はたちの誕生月にアララギ入会。途中、神経衰弱のために休会し、1926年2月、アララギ再入会。
1928年4月、生家で女中をしていた11歳年下の笹本都留と結婚。
1929年4月に長男篤太郎、翌年11月に次男友達、32年12月に三男一念、35年6月に四男の涅槃が生まれる。
1930年7月、小説『友達』出版。扉に「この書を武者小路実篤・斎藤茂吉両氏に捧ぐ。この小説を書く当時、二氏の影響を最も多く受けていた」とある。
…お気づきかと思いますが、次男に自身が出版した小説と同じ名を付けていることにびっくりします。
1933年4月、アララギ準同人となり、36年1月には小さな雑誌の短歌選者に。
ところが翌2月、四男涅槃が病死。その衝撃のため極度な神経衰弱に陥り、5月4日に次男、三男と父子心中を図る。
三男一念を絞殺したのちに自らも首を吊ろうとしたが未遂に終わり、この日の夜、斎藤茂吉と土屋文明が八王子警察署に赴く。
6日、兄信太郎と八王子の友人たち、青山に茂吉を訪ねる。14日、茂吉が身柄を引き受け、青山脳病院本院に入院。
茂吉が多くの入院費用を捻出しているようなので、大事にされている弟子だったのでしょうか。
茂吉のもとで順調に治療を続け、1938年4月、アララギに復帰します。そのとき、彼は名を「一念」と改めます。
つまり、自ら殺めた子の名を新しい筆名としたわけです。
1941年9月、第一歌集『明闇』が茂吉の援助によってアララギ業書第九八篇として刊行。茂吉の序文には次の一文があります。
「鈴木君は病気の後、「一念」を以て筆名とし、この集も「一念著」としようかと云つたが、「金二」の名は既に歌壇にも通つた名であるから、「やはり鈴木金二著の方が善からう」と云つて、君も首肯したのであつた。」
1957年10月、直腸癌により死去。第一歌集刊行後は主にアララギで活動し、映画評や小説なども発表し続け、地元の商工会議所、短歌会においては講師的存在だったそうです。
現在、彼の作品は『鈴木一念全歌集』でも読むことができます。
当時のアララギでそれなりに活躍した、ということからも窺えますが、その作品は実景を忠実に詠みこんだものや、素朴な自然詠が多いようです。
金二(一念)は魚屋を営んでいたというので、「小僧」が「まぐろ」と寝言を言うさまは、かれが確かに目にした光景なのかもしれません。
例えば、第一歌集『明闇』の巻頭歌はこちら。
登り行く阪の上にも冬木見ゆ月おぼろなる靄立ちながら
一方で、
靑草の五月の病院に吾居りて燃ゆるが如きゴツホの絵おもふ
などの歌には、茂吉の影を大いに感じさせます。
きょう挙げた歌も、とくに下の句のまじないのような繰り返しの文言は、茂吉の「ああそれなのにそれなのにねえ」を彷彿とさせられます。
しかしながら、この歌の作られたのは1931年。じつは、茂吉の「それなのにねえ」よりもずっと前に作られた作品なのでした。