閉ざされているいちめんのガラス張りゆらめいてライターの銀の歯車まわる

岐阜亮司「フラグメント」『文學界』,2022.05

 

「ゆらめいて」いる歌だと思う。その奇妙な調べにまず目(耳?)が奪われます。

 

上の句「閉ざされているいちめんのガラス張り」は正しく5音・7音・5音。でも7音・7音のはずの下の句「ゆらめいてライターの銀の歯車まわる」は5音・8音・7音と、存在しないはずの5音「ゆらいめいて」が挟み込まれている。

その言葉からは「ライター」から生まれる火の様子を彷彿とさせられるけれど、この歌のいっときでは、まだ火は点いていない(というより、ここで今まさに火が生まれようとしている、その瞬間が詠われていると読みました)。

 

上の句が正しく定型にのっとり、下の句で大きく破調が用いられることで、さきの5・7・5、つぎに7・7のきたるテンションで5・8・7に突き進むと、読み上げるときやや早口になります。

「歯車が回る」とは、「色々なことが噛み合って物事が順調に動き出す」という慣用句ですが、ここで何かしらの運命が加速する様子と、早口で読み上げられる言葉の調子は重なります。

さらにその「歯車」が回りだす煌めきの瞬間が、語り手が敢えて形容する「銀の」金具と、まるで響き合うようにつくられている。

 

視点も不思議です。「閉ざされている」から始まる「ガラス張り」の世界の内側に在るようでありながら、「歯車」の回る様子を、外側から眺めているまなざしも存在している。

こうして複眼的であることで、「閉ざされている」はずの世界が拡張してゆくようなつくりになっているのです。

先の「ゆらめいて」は、ノイズのようでありながら、じつはこの歌のかみしもの異なる位相を繋ぐように、そうしてこの歌を統治するように働いていて、だからこそ冒頭のような感想に至るのかもしれません。

このことは、「ゆらめいて」の5音を追加すること、つまり単に三十一文字から要素を増やしたことが功を奏した、ということではないということを示唆します。

 

誰しもこころのうちに、透明なお城のようなものを持っていると思っているのですが、

この歌においては、そこを閉じることによって完成される世界とは正反対の、そこから何かが生み出される、始まりの瞬間をとらえたことがあたらしくうつった一首でした。

 

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