河野裕子『歩く』(2001)
今日でこの欄は100回目。
故人として河野裕子さんを置くことになるのは、辛い。
河野さんの、すべてを晒してゆく(体当たりとよく言われる)パワーにはだれも圧倒されてきた。否、これからも現代短歌のひとつの形として、圧倒されるであろう。
個人的なことだが、裕子さんは私の母親と年齢が近く、ご子息の永田淳さんは私と年齢が近い。
同じ時代を生きる母親と息子という観点からも河野短歌を楽しんできた。
例えば、この掲出歌での母と息子の距離感の表出は絶妙である。母親はあらためて息子にこういうことは言わない。それは息子が困るだけだと知っているからだし、一定の距離を保たなければならないと知っているからだ。
ただ、こうして言ってしまえば、母親の本音のさびしさが見えて、せつなくなる。こういうことを言ってしまうのが河野裕子である。
また、「住んでいまふ」というのは、おかしな言い方であるけれど、他の言葉と交換できない。こういうぎりぎりの強引さは、きれいに成型された言葉よりも直截に響く。これも河野裕子のすごさであると言える。
こういう人間の太さをどっしりと読むことは、現代短歌がしっかりと受け継いでゆかねばならないと思うのだ。