松平 修文『原始の響き』(雁書館 1983年)
梅雨の時期、生暖かい風がもあーっと吹くことがある。そこに、「蝸牛のけはひ」が感じられている。一匹ではない、「かずかぎりなき蝸牛のけはひ」が。
……想像するだに恐ろしい。考えてみれば、「蝸牛」は非常に不思議な生物だ。体は軟らかく、粘液で湿り、殻を背負っている。角を出したり目玉を出したり、引っ込めたりする。ゆっくり這う。
「蝸牛」という名前そのものが「渦を持った虫で、牛に似ている」という意味なのだろう。牛 小さな獣なのである。それが息づいている。
二、三匹くらいまでなら可愛いかもしれない。が、かずかぎりなくいるとしたら、どうだろうか。アフリカには、三十センチを超える蝸牛もいるとか……。
そもそも、この時期の風は、何となく生臭い。勢いを増す植物や動物が放出・発散する物質や、人間由来の構造物、廃棄物などの臭気が、上昇する気温や高まる湿度のなかで混ざり合い、醸され、それが水分にしっかりと絡めとられつつ、濃い雨の匂いとして届けられる。
そして、吹き方も一定ではなく、うねったりざわざわしたりして、こちらを落ち着かなくさせる。
そういう感触が「蝸牛」と結び付いた。
さて、この歌の最も恐ろしい部分。それは、「けはひ」なのだと思う。
蝸牛が実際にたくさんいる情景を描いても相当恐いだろうが、蝸牛がむんむんと集まっていそうな様子、種として何かをなそうとしているそぶり、こちらに押し寄せるかもしれない兆し、などをイメージさせる、そのことが恐ろしいのだ。
「けはひ」は結句に置かれ、読み手各人が肌で感じる蝸牛の「気」を、長くとどめさせる。
一方、「風」は、「来し」・「とほる」と擬人法を用いて描かれながら、結果的にメッセンジャーの役割を果たした。主体は「部屋」という、囲われた人間のエリアにいるけれども、その外には、こちらのはかりしれない生々しい世界があること、コントロールできない野性の世界があることを伝え、「蝸牛」の世界を垣間見せた。
窓が開いているのだ。その一点を通して、異世界と繋がる。繋がる予兆がある。
蝸牛、ただいま絶賛活動中だろう。
各地方、ぞくぞくと梅雨入りの日本である。