中津 昌子


我が手相見つつおどろき言わざりし人は何見しはやばや逝きし

玉井清弘『谷風』(2004年)

 

 

わたしは、占いのたぐいはあまり信じない方なのだが、手相というものには、どうも何かあるような気がする。他ならぬ自分の手に、何事かが現われ出る、それはありそうなことのような気がするのである。

 

掲出歌、見た人は何も言わなかったのだから、たぶん専門の手相見ではないのだろう(お金をとっていたら、何であっても、言い方を工夫してでも言うであろう)。
たぶん素人。
手相のことはちょっとわかるから、どれ。―たとえばそんな場面。
こちらも軽い興味本位で差し出した手をみて、ところが相手は驚いた。そして何も言わなかった。

 

言わない、ということは、いいことのはずがない。
だが何と言うのだろう、その反応を見て、一瞬暗い予感がひろがるとともに、誇らしいとでもいうべきものもあったのだろう。

人を驚かせるものをわが手相は示している。
わが運命はさほどに強烈なものだ。
凡庸ならざるものを自分は秘めている、という思い。

 

「はやばや逝きし」の結句に驚く。
こうくると、己の運命がその強さでもって、相手をとり殺してしまったかのようだ。

 

過去形でうたわれているから、こうしたすべての思いに対する感慨ということなのだろう。

 

上句全部が「人」にかかる形で、一首を重くしたあと、下句は、こまかくことばと切って、ハキハキ運び、情をまつわらせない。

 

何か先にまがまがしいことがあるかもしれない、その不安はたぶん残っているはずだが、強さを前面に最後までを押しきっている。